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平成26年12月2日

テーマ    『師 走』


師走(しわす)とは、陰暦12月の異称です。太陽暦になってもその呼び名は残りました。

一般に、年末で皆忙しく、普段は走らない師匠さえも(すう)(そう)することから「師趨(しすう)」と呼び、これが「師走(しはす)」になったとされています。



開導聖人の御教歌には、「年末年始」の分類では19首あり、年末に限っては、7首詠まれています。(類別御教歌集参照) その内の1首に


御教歌(佛立開導日扇聖人教え歌)

いたづらに  (ふみ)をみしとて  さかさまに
(まき)かへされぬ  としのくれ(かな)

№244(192)(御消息・扇全18巻42頁)


文(ふみ)とは、かきしるしたもの。文字。文書。書物。手紙。書状。また、特に恋文。学問。特に、漢学。漢詩。漢文。等々と辞書には掲載されています。

御教歌の文は、手紙の事です。

この御教歌も、開導聖人が文久2年12月17日付けで出されたお手紙の末尾に、認められています。



昔は手紙と言えば巻紙に書き、丸められていました。

読むには、巻物を広げるようにしながら、文字を追っていったのです。

歌舞伎の海外公演で、この日本の文化を知らない西洋人は、巻かれている手紙を一瞬に広げる名場面に、トイレットペーパーを投げたと勘違いをして大爆笑をした事があった、と伝えられています。



手紙を読み 終えれば、必ず巻き戻して納めるものです。

この(たと)えを以て、年の暮れになって時間を巻き戻そうとしても、それは叶いませんですぞと御教歌はお諭しです。



矢の如く過ぎ去る光陰。

時間を、(さか)さまには巻き戻すことは出来ません。

いたずらとは「徒」と書き、無益。無用。役に立たないこと。つまらないこと。むなしいさま。等々の意味です。

師走のひととき、一年を振り返って、何とはなしに過ごして来てしまったことは誠に残念だと、一般の人々は年の暮れにとかく感慨を抱くものです。

この世相を鑑みられ、さらにお手紙を差し上げた方へ、開導聖人ご自身の謙遜の心を込めて詠まれたのが、この御教歌であると拝察させて頂きます。



俚諺に「 後悔先に立たず」とあります。

事が終わった後で悔いても、取り返しがつかないの意味です。

従って、する事はせよ。

させて頂かねばならないことは、精一杯させて頂きなさい。

一年を振り返る師走のこの時期に、「徒」への反省の意を込めて、毎日のご奉公に臨む志の大事を教えて頂きます。



開導聖人の御指南

「本門の行者信者たらん人々、名利に迷ひて今度の一生をいたづらにせば、御法にあひしかひもなし」

(捨身決定二世安楽・扇全9巻6頁)




平成26年10月14日

テーマ    『紅 葉』


もみじ。

紅葉・黄葉と書いて、もみじ・もみぢ(旧仮名遣い)と読ませます。

辞書には、

上代にはモミチと清音。上代は「黄葉」、平安時代以後「紅葉」と書く例が多い。

秋に、木の葉が赤や黄色に色づくこと。また、その葉。〈季語 秋〉。カエデの別称。〈季語 秋〉。「もみじば」の略。

等々と続きます。



秋の自然現象の紅葉です。

葉が紅色に変わることを紅葉、黄色に変わること黄葉と分けて記すこともあるようで、文字の使い方にも注意が必要なようです。

紅はカエデ・ウルシの葉が、黄色ではイチョウ・ダケカンバなどが著明です。



一般に落葉樹のものが有名で、一斉に紅葉する様は観光の対象となっています。

桜前線と対比して「紅葉前線」とも呼ばれ、9月頃から北海道を手始めに、徐々に南下します。

紅葉が始まってから完了するまでは約1か月で、見頃は開始後20~25日程度です。



紅葉狩りとは、日本の紅葉を見物する行楽です。

狩りとは眺めることの意味で、平安時代には実際に紅葉 した木の枝を手折り(狩り)、手のひらにのせて鑑賞する、という鑑賞方法があったそうです。

紅葉をめでる習慣は平安の頃の風流から始まったとされ、特に京都市内では多くの落葉樹が植樹されているのです。

紅葉の名所と言われる箇所は全国にあり、京都の社寺などは行楽客であふれます。

日本では、古来より紅葉は和歌をはじめ、様々な芸術の題材ともなっています。



佛立開導日扇聖人が遺された3300首を超える御教歌の中にも、紅葉に関する御教歌は6首詠まれています。

その中の1首に、



御教歌(佛立開導日扇聖人教え歌)

雨露に  うたるればこそ  もみぢ葉の
錦をかざる  秋はきにけり

№96(90)(師歌書写 92)


大意

もみぢの葉の色付きの鮮やかさは、秋を迎えるまでの一年間、寒さが厳しければ厳しい程、暑さも厳しければ厳しい程、雨露に打たれれば打たれる程、素晴らしい色鮮やかな紅葉を見せてくれると言われます。錦を飾る秋の素晴らしさは、その結果に至るまでの苦労にある。辛抱し困難を乗り越えた結果こそが、錦を飾る秋なのです。

ご信心で未来仏果成就の大果報を感得するにも、臨終の夕べまで、苦労に堪えて辛抱を重ねて(たも)ち続ける信心前こそが大切とお諭しです。



経のご(ほん)()に叶う折伏教化ご弘通ご奉公に、怨嫉迫害は付きものです。

三類の強敵とは、内からも外からも襲ってきます。

先ず、我が心の中の三類の強敵に打ち 勝たねばなりません。

お看経がいや、御講参りがいや、遊惰はすき也との心が即、我心の中より起る三類の強敵であると開導聖人はお諭しです。

これに打ち勝てる信心前になれたら、いよいよ外から三類の強敵が襲ってきます。

この強敵にも打ち勝つご信心の決定、忍辱心の決定をお諭しの御教歌と拝察致します。



開導聖人の御指南

「信心を邪魔するものが三類の強敵也。(乃至)お看経がいや、御講参りがいや、遊惰はすき也との心が即、我心の中より起る三類の強敵也」

(開化要談 弐・扇全十三巻五七頁)




平成26年9月16日

テーマ    『菊の花』


春の桜に対して、秋を象徴する草花と言えば、菊です。

菊は、キク科キク属の多年草です。

原産は中国大陸で、日本には奈良時代以後に渡来し、江戸時代に改良が進んだそうです。

梅・竹・蘭とともに四君子の一つとも言われているそうです。



品種が非常に多く、電照菊の栽培によって四季を通して店頭に並んでいます。

鑑賞園芸的には和菊、生産園芸的には洋菊が中心に栽培されており、食用菊等もあります。

花言葉は「高貴」で、秋の季語にもなっています。



皇室の紋章が菊になったのは、後鳥羽上皇からと言われ、宮中では菊の節句とも呼ばれる重陽の節句(旧暦9月9日)が明治時代まで行われ、現在でも皇室園遊会(観 菊御宴)として行われています。



鎌倉時代には蒔絵や衣装の文様として流行しました。

日本では黄泉の国神話の口承による影響で、伝統的に仏花や献花として菊が使用されてきています。

世界的にも、フランス等一部のヨーロッパ諸国において白菊が墓参に用いられ、中国、韓国でも葬儀の際に菊が用いられることが多いそうです。



日本には、350種ほどの野菊が自生しており、叢菊(むらぎく)とはむらがって生えた菊のことです。



御教歌(佛立開導日扇聖人教え歌)

()をらずに  みてのみゆかん  おくつゆの
いろもかずある  野路のむら菊

№1758(1460)(てこのかたま・扇全15巻72頁)


御題には「けいせいを見てよめる」とお示しです。

けいせいとは、辞書に【傾城・契情】とあり、[遊女。近世では、特に太夫を指す]と掲載されています。

開導聖人が、京の何処かで太夫の姿をご覧になり、この御教歌を詠まれたことが、この御題から判ります。



「花魁道中」とは、遊女が盛装して郭中を練り歩いたことで、江戸吉原では正月または八朔(はっさく=8月1日)に、京都島原では4月21日に行なわれたようです。現代の京都では、花魁に扮した女性が予定されたコースをお供を従えて練り歩く観光行事として復活されているところもあるようです。



路地に咲く、色も数ある叢菊の花。

これ等が全て 、太夫の装飾語として用いられています。

それを手折らずに見ていくだけにしよう。

これは、何を意味しているのでしょうか。



野菊も野辺に咲けばこそ美しさがある。

しかし、これを手折って我が物とすれば、やがては打ち(しお)れて見るかげもない姿となり終えるに違いありません。

太夫の美しい姿を見るだけで、それは充分に情緒のあるものと観賞できます。

しかし、これを我が物にしようと欲心を起こせば、煩悩の奴となって苦しみを招くことは明らかです。

このことを、野菊に譬えをとられて示された御教歌であることが判ります。



更にこの譬えから、手折らずに居ることが大切だというのは、何を仰せなのでしょうか。



この 譬えは、ご信心の上での好奇心、探究心から出てくるところの、凡夫考えによる妙法御題目への解明、解釈することを誡められています。

教えの上から拝察すれば、御題目も仰ぎ信ずる処にこそ拝むことが出来るものです。

しかし、この妙法の正体はいかにと凡夫の考えの中に取り入れようとすれば返って妙の働きを見失うことになりますぞ、と誡められた御教歌と拝察させて頂きます。



妙とは不可思議と名付けられます。

凡夫考えの及ばない不可思議の世界を、詮索せず、解にズルことなく、但だ信心に住して感得させて頂くのです。

故にお互いは、信の一字を詮と為すと仰せられた高祖日蓮大士のみ教えと、我身大悪人也と観念して御題目におすがりせよと仰せの門祖聖人のご教訓 と、あくまでも素直正直な信心に住し法論問答無用と断じられた開導聖人のご教導を、堅く遵守させて頂きましょう。




平成26年8月15日

テーマ    『朝顔』


朝顔は、熱帯アジアが原産の、ヒルガオ科の蔓性一年草です。

夏、葉の付け根にラッパ形の大きな花をつけます。

奈良時代に中国から遣唐使によって我が国に伝来したと言われています。

当時はこの朝顔の種子と言うものが大変貴重な漢方薬として珍重され、下剤用として使われていたようです。


朝顔が今のような鑑賞用として栽培されるようになったのは江戸時代の後期で、園芸植物として改良発達しました。

「朝顔やつるべとられてもらい水」は、加賀の俳人「千代女」の句です。

    朝、井戸で水を汲もうとしたら朝顔の(つる)が、釣紐(つるべ)に巻ついていた。

    弦を切って水を汲むのも可愛そうで、隣の家に水を貰いに行った。

人情味溢れる 俳句です。

石川県白山市の出身の千代女は、江戸時代の人です。

初め「朝顔につるべ取られてもらい水」と詠みましたが、35歳の時に、「朝顔や~」にと詠み直したといいます。


朝顔は品種が多く、花の色は白・紫・紅・藍・縞・絞り、また形も獅子咲きなど変化に富む花です。

現代では、小学校の教材に用いられたり、グリーンカーテンにして省エネ・エコロジーの為に栽培されているようです。


明治廿一年八月ごろ、開導聖人は次の御教歌を詠まれています。


御教歌(佛立開導日扇聖人教え歌)

朝顔は  あさなあさなに  さきかはり
さかり久しき  花にぞ有ける

№37(17)(末代幼稚信要学・扇全12巻318頁)


大意

毎朝毎朝、咲き変わる朝顔の花は、盛りの時期の長い植物です。

「朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり」とは、孔子の論語の言葉です。

朝顔の花の咲きようは、明日に生れ夕べに死すそのものです。

ひとつひとつの花は、一日の命ですが、花を咲き続ける生命力は盛り久しいものです。

この(たと)えを以て、お互いのご信心の常精進をお諭し下さる御教歌と拝察させて頂きます。


御教歌の御題には「三日坊主の(しり)やけ(ざる)」とお示しです。

・三日坊主とは、飽きやすく何をしても永続きしないこと。また、そういう人を嘲っていう語です。

・尻焼け猿とは、物事に倦きやすく、一つの事をし遂げることのできない 人、転々として廻る者をいう言葉です。

この御題から、物事には辛抱が大切で、こらえ性のない者に対するお誡めの意で、朝顔のように久しく盛る努力をせよとお諭し下さる御題と御教歌であることが(わか)ります。


開導聖人は御指南に

(じよう)(しよう)(じん)と申すは、常はツネ精はクハシク進はスゝムと読めり。常に何するいとまにも油断なく南無妙法蓮華経と口唱の行をつとむるをくはしくすゝむと云ふなり。是を精進と云ふなり」

(末法相応安楽教導抄・扇全5巻75頁)

とお示しです。

常に(くわ)しく進むとは、直訳すれば「いつもこと細やかに前進する」となります。

精進とは仏教用語で「ひたすら仏道修行に励むこと」です。

これに常という字が付けば、「 普段から」「平素から」という意味が付加されます。

つまり、毎日毎日ひたすら仏道修行に励むことが常精進です。

更に、当宗の仏道修行は、口唱行ですから、「常に何するいとまにも油断なく南無妙法蓮華経と口唱の行をつとむること」。これこそが常精進であると開導聖人はお諭しです。





平成26年7月10日

テーマ    『鯛味噌』

御教歌(佛立開導日扇聖人教え歌)

台処(だいどこ)へ  出さずにおいて  (たい)()()
かびをはやして  なんの事かい

№1695(御弟子旦那抄  下・扇全14巻79頁)


大意

鯛味噌(たいみそ)を手に入れた大店(おおだな)の主人が、一人では一時(いっとき)にねぶられもせず、かといってお手伝いの女性にお裾分(すそわ)けをするのも()しいと思い、台所には出さずに戸棚にしまっておいた。湿気の多い時期のこと、後になって食べようと思って見れば、カビが生えてしまいほかす(捨てる)以外にどうしようもなくなってしまった。食べられる内に皆にも分け与えて、早く食べていたら捨てることもなかっただろうにと、この(たと)えを以て、欲を(むさぼ)ることを(いまし)め、欲少(よくすく)なくして()ることを()る「(しよう)(よく)()(そ く)」の生き方を(うなが)される御教歌です。


鯛味噌とは 、火を通したタイの身を味噌に()りまぜ、砂糖や水飴などで調味したものです。炊きたてのご飯で頂いたり、お茶漬けにしたり、副食にしたり酒の(さかな)にもなる日本独自の伝統料理です。開導聖人のご時代に、冷蔵庫などはまだありませんでした。食材を保存するには、高温多湿の今頃の時期には特に注意が必要でした。うっかりすると、カビを生やしてしまい、美味しい食材も、貴重な食材も、食べられなくしてしまうことが多かったわけです。カビた物は(いさぎよ)く処分せざるを得ませんでした。


処分しなければならなくなった原因を考えると、()しや()しやの(おの)貪欲(とんよく)にあった分けです。我れ人共に美味しい物を分かち合って食べようとすれば、そ んなことにはならなかったはずです。何でも取り込もうとする欲望、それを独り占めしようとする欲望が、「なんの事かい」と(あき)()てる結果を招いたのです。



御教歌の御題には


(しょ)()(しょ)(いん)(とん)(よく)()(ほん)の御文の事を思ひなんどする折によめり」(同上)

とお示しです。

この御題から、末法の凡夫の貪欲を()(しやく)された御教歌であることが(わか)ります。


開導聖人は上欄に御指南をお書入れで、

(きように)(いわん)(しよう)(よく)()(そく)(この)御文を思ふときに貪欲消滅して (しょ)(がん)(じょう)(じゅ))す。(まつ)()()には(ただ)(しん)(じん)(かん)(よう)」( 同上)

(さと)されるのです。


御題の「諸苦所因貪欲為本」は法華経譬喩品第三の御文で、「諸苦の所因は貪欲これ(もと)なり」と読み下し、諸々の苦しみは貪欲が本である事を示されます。そして、御指南の「少欲知足」は法華経普賢菩薩勧発品第二十八の御文で、「欲少なくして()ることを知る」と言う意味です。


小欲知足の御文を思って口唱信行に励む時、貪欲は消滅して諸願は成就させて頂ける。(まつ)(だい)(さん)(どく)(ごう)(じょう)のお互いには、御経力を以て三毒(貪欲・瞋恚(しんに)愚痴(ぐち))を押さえ込み沈静化せしむる以外に、欲を押さえる道はありません。そのことを指して「只信心肝要」と結ばれるのです。


お互いは、鯛味 噌に限らず、美味しい物は皆で分かち合って頂戴できるよう、菩薩の心である施しの気持ちを持たせて頂きましょう。





平成26年6月18日

テーマ    『雨の晴間』

梅雨の季節になりました。

生きとし生けるものに必要な雨です。

しかし、そのとらえ方は様々なのが人間の世の中のようです。


佛立開日扇導聖人の御指南に、
「人の命は雨の晴間も待ことなし。此事、彼事して後にと、怠るべきことにもあらず。是生死の一大事。臨終の事を先に習ひて、後に他事を学ぶベし」

(諸宗堕獄抄・扇全2巻197頁)


とお示しです。




御指南冒頭の「人の命は雨の晴間も待ことなし」のご文は、兼好法師の徒然草第188段の文章です。


徒然草の内容には、ある人が、「ますほの(すすき)・まそほの薄といわれる秘伝があり、渡辺に住む聖がこのことを伝え知っているらしい」と語るのを、登蓮法師が耳にした。雨が降 っていたが登蓮は、「蓑と笠をお借りしたい。その薄のことを習いに、渡辺の聖を訪ねたい」というので、「せめて雨が上がってからでは」といえば「つまらぬことを仰るものかな。人の命は、雨の晴間を待ってくれるものか。我れが死に、聖も亡くなれば、どうしてこれを尋ねることができよう」と登蓮法師は走って飛び出し、ついに習うことができた、という話がつづられています。


ますほの薄をめぐる登蓮法師の高名な逸話で、ますほの薄とは、秘すべき歌道の奥儀といわれるものです。雨がやんでからという助言を退け、雨の中を駆け出す登蓮法師。人の命の短さと運命の仮借なさ。今この一瞬を最大限に生きようとする、無常に対する心構え。この逸話にはそれ等が説かれています。道を求める者の真摯な姿に、 兼好法師が筆を執ったのも肯ける話です。


お祖師さま日蓮大士の御妙判には、

「念願すらく人の寿命は無常也。出る気は入る気を待事なし、風の前の露尚譬にあらず。かしこき(賢)もはかなき(愚)も、老たるも若きも定め無き習也。されば先臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし」

(妙法尼御前御返事・昭定1535頁)

とお示しです。




開導聖人は、徒然草のご文に続いてこの御妙判を頂かれ、

「此事、彼事して後にと、怠るべきことにもあらず。是生死の一大事。臨終の事を先に習ひて、後に他事を学ぶベし」

(諸宗堕獄抄・扇全2巻197頁)

と諭されるのです。




この御指南に続いて開導聖人は御教歌をお認めです。

御教歌(佛立開導日扇聖人教え歌)

夢の世の  しばしの(らく)も  らくなれど
(なが)地獄(ぢごく)の  くるしみはいや

№3060(諸宗堕獄抄・扇全2巻197頁)


大意

現世の事々は夢のようなもの。諸宗堕獄謗法の信心をしながら、その夢の世に起こるしばしの楽しみを享受することは、それはそれで仕方のない事であろう。しかし、臨終の後に堕獄して永き苦しみを味わうことは、それはまことに嫌な事である。そのようにきっぱりと思い定めて、後生寂光参拝させて頂ける当宗のご信心に帰入すべし。「かく思へ」と御教歌の次下(つぎしも)に示され、強く後生寂光参拝を促される御教歌です。




人生には、急いでしなければならないことと、後回しにして良いことと、二つあるのです。


生死の一大事を念頭に置けば、五欲煩悩が働く、此事・彼事を後にしなければなりません。それを顛倒して、臨終を習うご信心を懈怠する 事など以ての外のことなのです。



雨の晴れ間を待つ事なく道を求める真摯な思いと行動。これこそ、無常の世の中でお互いに求められるご信心の姿勢に外なりません。

この時期、梅雨の雨に打たれる度毎に、お互いのご信心の思いを見直させて頂きましょう。





平成26年5月11日

テーマ    『実になる花』

御教歌(佛立開導日扇聖人教え歌)

さくと()て  おつるもいづれ  あるならひ
()になる(はな)の  (かず)はすくなし

№1154 (十巻抄  三・扇全14巻419頁)


咲いた花のすべてが実になるものではありません


実を結ぶ前に落ちていってしまう花の方が多いものなのでしょう


(果物を栽培する業者は美味しいものが出荷できるようにあえてまびきをするそうです)


すべての花が実を結ぶわけではないのが世の習いのようです




高祖日蓮大士の御妙判には


「魚の子は多けれども魚となるは少なく、菴羅樹(あんらじゅ)の花は多くさけども菓になるは少なし。人も又此の如し」 (松野殿御返事・昭定1269 頁)とお示しです


菴羅樹(あんらじゅ)とはウルシ科マンゴー属の果樹のことだそうで


その果実であるマンゴーを、菴羅(あんら)とも、菴摩羅(あんまら)ともいうそうです


魚の産卵と孵化は膨大な数ですが成魚になるものはごくわずかです


菴羅樹(あんらじゅ)に咲く花も多いけれど実を結ぶものは少ないのです


これをたとえに、人も信心を起こす者は多いが最後臨終の夕べまで正信を貫ける者は(まれ)であることを(さと)されています




御教歌の御題には「退講(たいこう)せし人の(そし)りて(いわく)、 来年(まで)にはいくら人の数のへり(ゆく)やら」(同 上)とお示しです


この御題から御教歌の詠まれた背景がうかがえます


厳しいお折伏を受け入れられずに退転した者が、(おど)し文句を吐いて出ていったようです。ご信者もそれを聞いていたのでしょう。それに対し詠まれた御教歌と推察できます




御教歌に続くお書添えの御指南には


一木(いちもく)に咲たる花の数は多けれども、ことごとく実になるうめの木とてなし。まして下種折伏の(みぎり)の信者をや」


と示され、さらに上欄お書入れにも


(まこと)に人を助けんには数の(げん)ずるに驚ひては折伏はしがたし」(同 上)とお示しです


この御指南も御教歌と同様に、身近な梅の花をお(たと)えに


下種折伏の砌、末法時機相応の随自意(ずいじい)(仏様のお立場での物言い)のお折伏による教導方法は、逆縁正意なるが故に怨嫉(おんしつ)が多いことを仰せです




折伏したら即入信 入信したから即強信者 と簡単にいくものではありません


途中退転の者がいることは昔も今も一緒です


もとより咲いた花がすべて実になるということはないのが道理です


しかし、仏祖のご本意(ほんに)に叶う当宗は、出るよりは入る方が多い、経力現証あらたかな宗旨であると開導聖人は続けておられます




縁とは直接的原因を間接的にたすけて結果を生じさせる作用で、因と同義にも用います


俚諺に「袖振(そでふ)り合うも他生(たしょう)の縁」とあります


道行く知らぬ人と袖が触れ合うことさえもすべて宿世の因縁によるという意です


過去世の縁もさることながら、同時に未来世への縁結びも発生しています




退転するからと厳しい折伏を止めるのは間違いです


随他意(ずいたい)(凡夫に合わせた物言い)の摂受では現証は顕れません


未来成仏の証である現証が顕れなければ、正信をお持ちしていることにはなりません




大地に倒れた者は、その大地にすがって立ち上がるように、強折によって退転した者は御題目との強いご縁で、堕獄ののち再び人界に生を受けやすくなれるのです


残念なことですが、随自意の厳しいお折伏を受け入れない凡夫に、今生で正法御題目との強いご縁を結ばせて頂けたことに思いを致しましょう




「縁なき衆生は()(がた)し」の俚諺通り、いかにみ仏でも仏縁のないものは救済し難いのです





平成26年4月4日

テーマ    『桜の花』

御教句(佛立開導日扇聖人ご制作  ご信心のみ教えを読み込まれた句)

()りますと  (はな)のいふのを  ()いてのめ

№253 (「佛立」誌・大正9年4月号表紙・佛立事典第3巻 御教句集762頁)


花は桜


春を代表する桜は、日本人が特別に感情を移入して愛でる花です


開花宣言とは、桜に限り行われるようです


満開の花の下で、宴を催すにふさわしい花


人は毎年、花びらの舞う中で宴をします


その散り際の良さは、誰もが認めるところです


軍国主義の時代には「若鷲の歌」や、「同期の桜」などにうたわれ、愛国精神から特攻隊の青年達の散り際にまで影響を及ぼしたようにも思えます


同じように中国でも桃、(すもも)の花に心を寄せて詩が詠まれています


「年年歳歳 花相似たり 歳歳年年 人同じからず」


と詠んだのは、初唐の詩人・劉希夷(りゅうきい)で、28歳で亡くなりました


毎年毎年、花は同じように咲きますが、人は歳月を経るに従って変わってしまっている


人の世は変化するにもかかわらず,自然は変化していないように見える


世の中の無常を見事に歌いあげた漢詩として有名な詩の一節です


因縁譚があり、叔父の宋之問がこの詩をいたく気に入り、 譲与をせまりますが断ります


すると宋之問は下僕に命じて、劉希夷を殺させてしまったといいます


名詩にまつわる因縁話にも、人の世の欲にまつわる名聞利養と無常を感じます


御教句は、桜の花の散るにことよせて、世の中の無常を示されています


あたかも桜の花が、散りますと言っている如き風情を、思いながら酒を呑め


見る側の意識の仕方・在り方を啓蒙される御教句であることが判ります


諸行無常


その中に生きるお互いは、本門肝心上行所伝の御題目の御経力によって、無常の中に常住の浄土を顕現して頂き、現世は安穏に後生は寂光浄土参拝の大果報を感得させて頂けます


御題目の口唱信行と人助けの菩薩行に精進させて頂けば、大難は小難に、小難は無難になるお計らいの中で無常の人生を歩んでいけるのです


桜の花は無言ではあるけれども「散ります」と宣言して散っていくように見える


その無常の姿に、ご信心の決定をせよと促される御教句、と拝察いたします





平成26年2月27日

テーマ    『梅の花』

御教歌(日扇聖人教え歌)

ありがたや  (うめ)宿(やど)かる  (うぐいす)
()ちしてこそ  (とな)()かさねめ

人は、よるべきもの、よるべき所によって、心の在り方も変わるものです。


梅に鶯、松に鶴。古来、日本人の通念として、よるべき所を得た情景です。


鶯も、梅にとまれば、心おきなく美しいさえずりを聞かせてくれるでしょう。


梅の木を得た鶯が喜びさえずるように、今、(あく)() (まつ)(ぽう)という時代の私たち 凡夫(ぼんぶ)には、よるべき信仰の対象に、本門八品所顕上行所伝本因下種の南無妙法蓮華経の御本尊を頂戴し、 その御題目を口にお唱えできることは、まことに有難いことである。その喜びの心で口唱を重ねたいものである、とお詠みくださった御教歌です。


御教歌の御題には「(よう)(ぼう)」とあり、 み仏の説かれた八万四千の法門の中の要点となるものが当宗の ()(ほう)(さま) であることを仰せです。


要法は本門肝心上行所伝の御題目。それを修行に移せばこの御題目の口唱信行となります。


梅に宿を借りた鶯の心地で、稀に人身を得、(たまたま)(しよう) (ぼう)御題目にお()() いできたこの(たび)の一生こそは、有難い思いで真実の御法様を口に唱える口唱信行に励ませて頂きましょう。