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平成28年 御法門  平成27年 御法門
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平成27年12月10日

テーマ    『としのくれ』


御教歌(佛立開導日扇聖人教え歌)
御題「かけもよらず(はら)ひも()()ずといふことを」

いによらぬ  (びん)(ぼう)(がみ)と  すもとりて
まけになりたる  としのくれ哉

№290(239)(如説修行弘安明治比較指南口伝略抄・扇全9巻411頁)



御教歌大意

()(すわ)って出て行かない貧乏神。

それと角力(すもう)を取って、とうとう負けてしまう年の暮れであることよ、と直訳できます。

年の暮れとは、お互いの臨終の夕べをも()けて仰せです。


貧乏神に負かされない様に、煩悩には限りをつけて、年の暮れの忙しい時程、信心ご奉公第一にお護りを頂くことが肝心とお諭しの御教歌です。


御題「かけもよらず払ひも出来ずといふことを」

かけとは(うり)(かけ)(きん)のことです。

それが「よらず」で寄って来ない、つまりお金が集まらない。

それを当てにしていた支払いも、当然出来るはずがない。

そのことを詠んだ御教歌である と御題は仰せです。


年の暮れになってお金の()()りで困っている状態が、丸で貧乏神が居座って離れない様に見えるのです。

開導聖人のご時代の商売の厳しさも、今の時代と変わりはないでしょう。

しかし、失業保険も職業(あつ)(せん)所もなく、福祉制度のなかった時代の年の暮れです。

年末の支払いが出来ないことは、店を(たた)んで夜逃げをしなければならないか、一家心中になってしまうのか、必死の状態であったわけです。

楽しいはずのお正月を迎えることなど、到底出来るはずがありません。


貧乏神と、凡夫の()(りき)角力(すもう)を取っても、勝てる筈がないことは判り切っています。

家を取られ、一家離散。その上、大切な命 をも奪われてしまうかも知れない。

この様な状態を開導聖人は御題と御教歌でお示し下されたと推察できます。


語 彙

「いによらぬ」 = 「いぬ」とは、漢字で書けば「去ぬ」で、古語に属する言葉です。

時間が過ぎ去った過去を現します。

同時に、空間に於いてもその場から立ち去って行ってしまう・帰って行くと言う意味でも使われます。

関東では現在は殆ど使われていませんが、関西では「あの人いによれへんわ」等と今でも使われています。

辞書にも関西の方言に残る言葉であると掲載されています。



年の暮れが臨終の夕べを掛けている、その根拠は御教歌の前にお示しの御指南にあります。

御指南は、お祖師様の有名な御妙判

「されば(まづ)臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし」

(妙法尼御前御返事・昭定一五三五頁)

の御文を引証されて、問答形式で説かれています。


御妙判のお意は、世の中には急いでしなければならない事と(あと)(まわ)しにしていい事と二通りがあり、いつ(なん)(どき)が知れぬ無常の人生を生きるお互いは、()ず臨終の事を先に習わなければいけないことをお諭しです。



弘通年度の替わった12月です。

菩薩行の証しである新年度の報恩教化の早期成就を目指し、しっかりとご信心に気張らせて頂きましょう。

これから年の暮れが近づくにつれて増えてくる、火事や交通事故や引ったくり等の被害に遭わない様に、忙しい時こそ、御宝前のお護りを頂いて、自身 も家族も揃って、無事に越年をさせて頂く事が出来る様、ご信心第一にご奉公させて頂く事が大事肝心とお諭し頂きます。





平成27年11月11日

テーマ    『(さん)(りき)()(ごう)


お祖師様日蓮大士の御妙判

(たと)へば高き岸の下に人ありて登る事あたはざらんに、又岸の上に人ありて(なわ)ををろして、此縄にとりつかば我れ岸の上に引登さんと云はんに、引人の力を疑ひ縄のよはからん事をあやぶみて、手ををさめて是をとらざらんが如し。(いかで)か岸の上に登る事をうべき。(もし)(その)(ことば)(したが)ひて手をのべ(これ)をとらへば即ち登る事をうべし」

(持妙法華問答鈔・昭定279頁)


御妙判大意

(ぶつ)(りき)(きよう)(りき)(しん)(りき)の三力和合をお示しの御妙判です。そのお意は、

高い岸の上から縄を降ろして、下にいて登れない人を助けようとしている人がいる。この縄にすがれば必ず岸の上に引き登らせようと言って下さるのに、引く人の力を疑い、すがる縄の強度を危ぶんで、手を出さずに収めて縄を取ろうとしない。どうして岸の上に登れるであろうか。もしその言葉に随って手を延べてすがりさえすれば、直ちに登ることを得るであろう。

と頂けます。

()(つう)すれば、岸の下の人とは末代悪世の我等衆生のことです。そして、岸の上の人とはみ仏のことで、縄とは末法時機相応の下種の大法・当宗の御題目のこ とです。

さらに云えば、末代悪世の一切衆生を悉く救済されんと大慈悲心を起こされた久遠本佛の大慈大悲の御力(佛力)と、その大慈大悲の顕れである救済の法の御力・自在神力の込められた御題目の妙法経力(経力)は、絶対のものです。

それを信じておすがりすることが出来れば、岸の上の寂光浄土に登り切れることは間違いありません。

但し、(めい)(もう)(ぼん)()は、その佛力と経力を疑い(あや)ぶんで、手を出そうとしないでいる。そこを、(ごう)(じよう)の信力を(おこ)してひとたびおすがりできれば、現世安穏後生寂光参拝は間違いない。

このように、当宗の現証ご利益を頂く秘決とは、この佛力・経力・信力の三力が和合するところに感得出来ることをお示しです。


御教歌(佛立開導日扇聖人教え歌)
御題「信者受持思定の事」

御利益を  もらふもらはぬ  われにあり
信心の手を  出していたゞけ

№1094(--)(一向令唱題目抄 三編・扇全7巻276頁)



御教歌大意

御題から、佛立の御法様を受持する信者となったからには、強盛の信力を出してご利益が頂けるよう思い定めよと諭された御教歌であることが判ります。

御教歌は、経力現証の顕れである妙不可思議のご利益が、頂けるか頂けないかは、おすがりするこちら次第である。当宗で唯一ご利益を感得するその方法とは、唯々信心の手を出して頂くものである。だから信心の手をお出しなさいと、お諭しです。

この御教歌は、『(いつ)(こう)(りよう)(しよう)(だい)(もく)(しよう)』という御指南書の第三編表紙裏にお書入れの御教歌です。御指南書の表紙を(めく)ってまだ序の文章を読む前に、まずこの御教歌が目に入ってくる のです。御指南書の題名と、詠まれた内容からも、御教歌が、一向に御題目口唱に専念せしむるための大事を説かれていることが判ります。

当宗の信心とは、有り難いと心で信じ念ずるだけでは駄目で、その思いが御題目口唱の行に顕れることが肝心です。

信心の手を出すとは、御題目口唱に気張らせて頂くことです。

おすがりする真実の御法様に絶対間違いはないのですから、強盛の信力を出して口唱行に徹することが大事とお諭しの御教歌です。


開導聖人御指南

「三力と申して、一には佛力二には経力三には信力なり。佛力(ほう)(りき)はかなたにありて信力は我心にあり。(乃至)三力()(そく)と申していかなる願望も皆これによりて成就すべし」

(末法相応安楽教導・扇全5巻52~3頁)


御指南大意

三力和合とは、佛力・経力・信力の三つである。佛力と法力(経力)は御本尊様にあり、、信力は我が心にある。(中略)この佛力経力に信力が具足しているのであるならば、どのような願いも望みも成就させて頂ける。

と、お示しです。





平成27年10月15日

テーマ    『()()の糸』


芥川龍之介の『蜘蛛の糸』。

大正7年(1918)青少年向けに書かれた短編小説で、今でも不動の名作として知られています。


ある日、蓮池を覗き込まれたみ仏は、カンダタ(犍陀多)という極悪人が地獄で苦しむのを見つけた。み仏は、彼が生前たった一度だけ行った蜘蛛を殺さず助けた善行に報いて、浄土の蓮池から蜘蛛の糸を垂らして差し伸べられた。カンダタはこれで助かると思い、糸にすがり登っていく。ところが、ふと下を見ると地獄の衆生が同じように登ってきている。「これは俺の糸だ。降りろ」と叫んだ途端、カンダタの所から糸が切れ、再び地獄に堕ちていった。み仏は、悲しそうなお顔をして立ち去られた。


あらましは、この様な内容です。


原典は、仏典にはありません。

ドイツの作家で哲学者、宗教研究者のポール・ケーラスが1894年(明治27年)に出版した、『カルマ( 因果の小車)』(Karma: A Story of Early Buddhism)所収の「蜘蛛の糸」(THE web of Spider)が原典です。


ケーラスは在米中、東洋思想研究所を創設し、禅僧・釈宗演との縁から鈴木大拙が米国に渡り、その研究に貢献したといいます。

『因果の小車』という邦題は、禅の大家・鈴木大拙による日本語訳です。

鈴木大拙の訳書『因果の小車』が日本で出版され、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』のヒントになったようです。


短編に仕上げられたため、ケーラスの作品から芥川が削除した教訓があるといいます。


向上し正義の尊い道に入ろうとするまじめな願いは、奇蹟的な力を持つ。

それは蜘蛛の糸のように細いけれども、数百万の人々をはこぶことができる。

そしてその糸をよじのぼる人々が多ければ多いほど、その人々の努力は楽になる。

しかしいったん人間の心に

「これは私のものだ。正しさの幸福をひとりじめにして、誰にだってわけてやるまい」

という考えがおこるや否や、糸は切れて、人はもとの個々別々の状態におちてしまう。

利己主義selfhoodとは呪いdamnationであり、真理truthは祝福である。


云々、と続きます。


()(つう)して言えば、蜘蛛の糸は、細いけれども、実は強固なものに違いありません。

自他共に登っても、切れはしないのです。

但し、()(じよう)(こん)(じよう)を起こせば、(たちま)ち切れてしまうものでもあるのです。

そのことに気付かず、それを教えられずに、生きて堕獄し、再び堕ちていったカンダタには、仏縁無き人生の悲哀を感じざるをえません。


御教歌(佛立開導日扇聖人教え歌)
御題「信心といふ事」

おのが身を  いのる事かと  思ひしに
人を助くる  それが信心

№606(486)(見せばやな・扇全9巻74頁 末代幼稚信要学・扇全12巻336頁)



大 意

御題から、佛立のご信心を端的に詠まれた御教歌であることが判ります。

信仰とは、自分の願いを叶えるために祈るもの。

そう思っていたら、佛立宗のご信心は、()()(さま)をお助けさせて頂くことが第一だという。

御題目は末法の一切衆生を救わんがために唱えられたもので、久遠本佛も高祖日蓮大士も、ご自分のことは差し置いて、人助けの折伏行に徹せられた。

私共もその()()をし、それを全うしようとすれば、図らずも如来の使いの仲間入りをさせて頂ける。

かえって、そのようなご奉公の中に、願わずとも自分の願いは叶えて頂ける。

つまり、()(ぎよう)を後回しにして 、人助けの()()(ぎよう)を優先させる佛立菩薩行、化他(そく)自行の大事をお諭しの御教歌です。


開導聖人御指南(どちらもお書添え)

「凡夫の(おも)()とは(さかさ)ま也」

(見せばやな・扇全9巻74頁)

(よく)(にん)聞けばおこかと思はん。(これ)を如来の御使と(もうす)也」

(末代幼稚信要学・扇全12巻336頁)


御指南大意

凡夫の欲の思いとは逆さまなのがご信心である。

欲に(まみ)れた人がこれを聞けば、置こうか(止めようか)と思うであろう。

しかし、置かずに実行する人を、如来の御使いと言うのである。

と、お諭しです。





平成27年9月14日

テーマ    『折伏せざれば懈怠を生ず』


御題「御利益を蒙り入講はしたれども」
御教歌(佛立開導日扇聖人教え歌)

あひがたき  みのりにあひて  いさみなく
身の幸ひと  いふもおぼえず

№9(65)(開化要談  六  後編第一・扇全13巻158頁)



大 意

()(がた)()(ほう)(さま)にお()(あい)いさせて頂き、御題でお示しのようにご利益も感得できたのに、少しもご奉公の気力がなく、我身の一番の幸いであるということが自覚できない人も居ることよなぁと、()(たい)している信者の情けなさを(なげ)かれている御教歌です。

故に、(この)(たび)の一生こそ、そのような情けない信心前で終わらぬよう、()(ほう)への感謝の心を養い育て、ご恩に報いていくご奉公に精進することが肝心です。

その為には、ご信心の改良を促すお(しやく)(ぶく)が大切とお(さと)しの御教歌です。


御教歌の直ぐ前にお認め御指南には、次のようにお示しです。

「私曰、信行(功徳)を以て子孫に(のこ)す者は(さかん)也。自力(()(ざい)()(じゆつ))を以て子孫に遺す者は亡ぶ。外典云、富は能く施すを以て徳と為し、(とうと)きは人に(くだ)るを以て徳と為す。(しか)るに富を施さず、貴きにして人に下らず。愚人也」(同上・扇全13巻158頁)



お意は、

ご信心の功徳を子孫に遺せば、家運長久の繁昌をする。

世財や知術(知恵のある(はかりごと))を遺すのは凡夫の自力に外ならぬ故に、必ず亡んでいく。

外典、儒教の(しん)(ぎん)()・修身の文には徳を積むことの大事が説かれている。

富を持つだけでは徳にならず、他人に施すことで初めて徳が身に付く。

身分が高く、貴く立派な人も、それだけでは駄目で、他の人に下る、 つまり謙虚に接して初めて我身の徳になる。

世間でもそう教えられながら、富める人が富を施さず、地位の高い者が人に接するに謙虚さがないのは、末法の愚人だからである。

と頂戴できます。

会通すれば、

富も貴きも、真実の御法様にお出値いした佛立信徒の果報のことと頂けます。

世間の金持ちや貴いと言われる人よりも、御法様にお出値いできたお互いは、魂の上で言うならば最高に富める者、最高に貴い者に外ならないのです。

故に、折伏教化如説修行での(ほつ)()を、我身を(くだ)りて人を立てる()(きよう)()(さつ)(法華経(ほん)(もん)(はつ)(ぽん)に説かれる菩薩・()(おん)(ほん)(ぶつ)の修行のお姿)の(ほん)(にん)(みよう)(成仏のための根本の修 行)のお姿をお手本として行うことが肝心と、感得すべきです。



御指南(御教歌お書添え)

()(たい)より(つみ)(ばち)(しよう)ず。折伏より利益を(こうむ)る。故に当宗は折伏宗也。折伏せざれば懈怠を生ず。故に、末法は(さん)(どく)(ごう)(じよう)の懈怠の人のみ故に折伏也」(同上・扇全13巻159頁)



お意は、

罪障もご罰感得も懈怠から生ずるものである。

懈怠を折伏し懺悔できれば必ずご利益を蒙る。

当宗は折伏宗である。

折伏をしなければ、懈怠を生じる。

末法の三毒強盛の凡夫は、元来懈怠の人ばかりなる故に、折伏によってのみ信行の改良増進がはかられる。

とお諭しです。


・真実の御法様にお出値いできた大果報 者、それこそお互い佛立の教講に外なりません。

・今度の一生こそ、感謝の心と、大恩を忘れず、そのご恩報じの折伏行に改良精進させて頂きましょう。




※参考


○外典の原文


「富以能施為德、貧以無求為德、貴以下人為德、賤以忘勢為德」(呻吟語・修身)

(富はよく施すをもって徳となし、貪りは求めなきをもって徳となし、貴しは人に下るをもって徳となし、賤しきは勢力を忘るをもって徳となす)


○関連引証


御妙判

「日本国に第一に富る者は日蓮なるべし」

(開目抄・昭定589頁)



「法妙なる故に人貴し」

(法華宗内証佛法血脈・昭定694頁)



「法妙なる故に人貴し、人貴き故に処尊しとは此の意なり」

(法華宗内証佛法血脈・昭定694頁)



「法妙なるが故に人貴し人貴きが故に所尊と申は是也」

(南条兵衛七郎殿御返事・昭定1884頁)



「日蓮は是れ法華経の行者なり。不軽の跡を紹継するの故に」

(聖人知三世事・昭定843頁)



御指南

「我身をくだりて人を立て、徳は人にゆづりて苦勞は我に引うくるやうにするを本因妙と申候」

(御消息・扇全33巻115頁)





平成27年8月10日

テーマ    『終戦70年』


今年は、第二次世界大戦が終わって70周年の年です。


日本も、大東亜戦争の敗戦から70年を数えます。


毎年8月は、お盆のご回向の月ですから、木蓮尊者の母君をご回向された故事に習って、お寺ではお盆の総回向を奉修しています。


また、終戦記念日が8月15日ですから、お盆の総回向に併せて、世界平和祈念法要も奉修させて頂いています。


戦争は、ないに超したことはありません。


しかし、有史以来、人類の歴史にはどの時代にも戦争はなくならず、日本も74年前には、開戦に踏み切りました。


日本の国益を守り、未来の日本の繁栄を信じた当時の人々は、 命を賭して戦地に向かわれました。


そのようして帰らぬ人となった戦没者・戦病没者の全ての方々の、大切な命を礎にして、今日の日本が在ることを私たちは忘れてはなりません。


それと同時に、終戦後の翌年から戦病没者の慰霊法要と世界平和祈念法要が行われて来ており、それが70年も続いているということは、見方を変えれば、それだけ日本には平和な世の中が続いているという事実があるわけです。


これは素晴らしいことであると言えるに違いありません。


そのような平和な世の中で、英霊の()(たま)を真実の御題目でご回向させて頂きながら、今後の世界平和の確立を祈って、一層口唱信行に励ませて頂きましょう。



御教歌(佛立開導日扇聖人教え歌)

なきたまの  名をいつまでも  しるしおきて
佛立講で  とむらわんとよ

№2053(--)(大阪・大歓組霊簿)



大 意

亡くなった(たましい)(()(たま))の名前=法号(他宗の戒名も含む)を当宗の霊簿に記入しおき、いつまでも末永く、佛立宗(佛立講)の真実の御題目でご回向をさせて頂く事が肝心とお諭しの御教歌です。

常盆常彼岸の教えを守って、戦病没有縁無縁の一切の諸精霊をも、本門さんの真実の御題目でご回向させて頂きましょう。


開導聖人の御指南

「亡霊弔いを待つ」

(講場必携 乾・扇全十四巻二二四頁)





平成27年7月11日

テーマ    『つゆびより』


梅雨の季節。


梅雨の季節を象徴するのは紫陽花(あじさい)で、これからが見頃のようです。



今年の梅雨の天気傾向は、エルニーニョ現象の影響で梅雨前線の北上が遅れ、梅雨明けは全国的に平年より遅くなり、後半ほど雨量が増加するとも予想されています。



雨量の増加は、河川の増水、道路冠水、浸水、土砂被害につながり、注意が必要です。



雨が止んだとはいえ、いつまた降りだすかわからないのが梅雨日和です。



不安定な天気に事寄せて、開導聖人は次の御教歌を詠まれています。



御教歌(佛立開導日扇聖人教え歌)

(あめ)(はれ)て  安心ならぬ  つゆびより
()()(しよう)うけて  くひにげもあり

№108(95)(百座法門 3・扇全12巻228頁)



大 意

雨が上がり、たとえ少しの晴れ間が覗いても、安心できないのが梅雨の日和です。

ご利生を頂いてご信心が決定できたであろうと一安心していたら、無銭飲食で食い逃げの如く、ご利益を頂いたことも忘れてさっさと信心を止めていく者がいるのは、何と浅ましいことかと、未決定の凡夫の身勝手さを誡められた御教歌と拝察させて頂きます。



以前、次のような話を伺いました。

病気平癒を祈る動機で入信した人が、お助行を頂いて無事に当病平癒のご利益を感得した。

ところが、ご利益を頂いたら直ぐさま退転した。

その理由を聞けば、

「病院は病気を治してくれるところで、病気が治れば出ていくもの」

「お寺も願いを叶えて くれるところなら、願いが叶えば出て行くのは当然だ云々」

と言ったのだそうです。



一往理屈は通っているように思われますが、それは屁理屈であり、人の道ではありません。

自己中心的な物の考え方で、自力で世の中を渡れると勘違いしている者の典型でしょう。



凡夫の自力で、医者の見離した病気が平癒するご利益は頂けるはずがありません。

なればこそ、御宝前の大慈大悲と、お助行をして下さったご信者方に、感謝の思いを持たせて頂き、そこからご恩報じのご奉公がスタートしなければならないのです。



(しよ)(しん)(えん)(ふん)(どう)せられて(しよう)(ぎよう)(しゆ)するを(さまた)げんことを(おそ)る」とは、 天台大師の法華文句のご文です。



当宗の宗風第四、「決定」の条文に、このご文が引かれています。

続いて、「悪世末法の求法の道に迷惑せぬよう用心し妙法に一心帰依して現証利益により信心を固め、決定無有疑の素懐に住する」ことを促されています。



梅雨日和の不安定な空模様と、初心の信者の未決定の信心前とは、共通しています。

ご利益が顕れたから安心と油断せず、信心が固まるまで、育成のお折伏を続けることが大切とお諭し下さるのです。





平成27年6月7日

テーマ    『雨降りの参詣』


入梅の季節になりました。

年によって空梅雨もあれば、長雨が続き日照時間が少なくなる時もあるようです。

近年は雨の降り方も、しとしととそぼ降る雨は少なく、集中豪雨、ゲリラ豪雨のような被害を及ぼすような雨が多いように感じます。

生活の中で雨は必要ですが、「雨(つちくれ)(くだ)かず」の様な雨がいつも降って欲しいものです。



雨の中を否応なく外出しなければならない時もあるものです。

傘一本増えるだけで、手荷物の処理に難儀したり、他人様の迷惑にならぬよう気をつかわねばならず、外出が鬱陶しく思うことも多々あります。

車の運転でも、晴れの日以上に気をつかいます。



舗装道路 が当たり前の現代ですが、日本のそれは1970年代前半から、急速に舗装が普及したといいます。

戦前の日本では、1931年に東京市がやっと舗装率55%を超えたそうです。

しかし、1960年代までは、未舗装道路が一般的で、国道といいながらも未舗装が普通の状態でした。

70年代後半からの本格的な車社会の到来で、舗装率が低さが車両故障の原因に違いないとばかり、急速に施工されたようです。



都会の裏路地まで舗装が成っていて当たり前のように思っている現代です。

未舗装道路は、農耕用車両しか見られない道路(田畑のあぜ道や林道など)に限られているようです。



開導聖人のご時代、江戸末期から明治の中頃は、文明開化の影響で、敷石やレンガの舗装が都会の ごく一部で始められていた頃です。

未舗装の道路に降る雨は、降る度毎に繰り返し、水溜まりや(ぬか)(るみ)や深い(わだち)ができ、歩きにくいことこの上もありません。

下駄ならまだしも、途中で降られた時の雪駄や草履履きとなれば、汚れ方も半端ではなかったでしょう。

人力車に乗れる裕福な人などそう多くはいなかったでしょうし、一般庶民は雨で難儀したに違いありません。



御教歌(佛立開導日扇聖人教え歌)

(みち)(とお)く  (あめ)(ふる)(とき)の  参詣は
信心つよき  しるし也けり

№2707(2264)(御弟子旦那抄 上・扇全14巻60頁)



大 意

お参詣をする時の条件は様々です。天気の良い日で近隣ならば、心も晴れ晴れと勇んで出かけられますが、遠い御講席でしかも雨降りとなると気も滅入ってしまうのが人情です。それでも、気を取り直して「いざ、お参詣」と、悪条件を押して参詣される方の信心前は、信心強盛のしるしでありますぞと、姿形に表してお参詣された方の厚志をお誉め下さった御教歌です。



明治時代の環境と現代のそれとでは雲泥の差があるといっても過言ではないでしょう。お参詣の条件は、現代こそ整って、楽に易々とお参りできるはずです。ですから、今お互いはこの御教歌を安易に頂戴して、悪条件に参れたのだから信心強盛になれたのだなどと、く れぐれも慢心をしないよう注意が必要です。そのうえで、謙虚になってお参詣の功徳を積み累ねて行きましょう。



御題「娑婆一日の修行は極楽百年の功徳にすぐると」



御題、出典の御妙判

「日蓮が慈悲昿大ならば、南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながる(流布)べし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ。此功徳は伝教、天台にも超へ、龍樹、迦葉にもすぐれたり。極楽百年の修行は穢土の一日の功に及ばず。正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか。是はひとへに日蓮が智のかしこきにはあらず、時のしからしむる耳」

(報恩鈔・昭定1248 ~9 頁)



御指南

(あめ)(ふり)(につ)(さん)(みじか)()(あさ)(まいり)はしにくきもの也。(その)しにくきことをつとめ()(たの)しみとする人は、必ず(その)(こう)をあらはすもの也。(しよ)(がん)(じよう)(じゆ)(かい)(うん)(しゆつ)()うたがひなし。(しん)(みち)(みなもと)としりて(いわし)(あたま)も信心からといふ(しや)(べつ)をしらぬ人ある也」

(長梥堂要義抄・扇全6巻198頁)




平成27年5月9日

テーマ    『蛙の合唱』


緑眩しい初夏の季節となりました。


各地で田植えが始まっています。


田植えの時期は、最も早いのは沖縄県で3月、最も遅いのは佐賀県の6月だそうです。


日本全国では、北が早く、南が遅い傾向があり、その理由は、稲の品種による違い(寒地では早生種、暖地には晩生種を植えるため)や、南では麦の刈取り後に田植えを行う二毛作が多いことなどの理由によるのだそうです。


田植えとは、水田に(いね)(なえ)を植えることです。


(なわ)(しろ)(たね)(もみ)()き、育った(なえ)を本田に移し植える移植栽培が一般的です。


近年の考古学では 、縄文時代晩期から古墳時代にかけて、日本でも田植えが行われていたことが判っているといいます。


モンスーン気候の梅雨の季節に、雨の恵みを受け、集中的に行われる田植えです。


昔は村をあげて、()(おと)()と称される女性たちが揃いの衣装で田植え歌を歌いながら植えていました。


後世にその姿を保存しようとする動きも見られます。


手作業による重労働の田植えも、1970年代(昭和40年代なかば)でやっと田植機の登場を見、重労働から幾分解放されたようです。


田植えは、田楽・御田植祭などのように、農村芸能や稲作をめぐる予祝行事ともなりました。


日本の水田は、自然界の中 で稲の生長を促すに絶妙のバランスを保っていると、自然の生態系を研究調査する学者が言っていました。


農薬の使用の是非は別にして、水田の恩恵を蒙る動物たちもたくさんいるようです。



御教歌(佛立開導日扇聖人教え歌)

(なわ)(しろ)の  ()()のかはづの  (もろ)こゑも
(ただ)一声ぞ  はじめ也ける

№2118(1686)(てこのかたま・扇全15巻30頁)



大 意

小田の蛙が鳴きだす声に事寄せて詠まれた御教歌です。

たった一匹の蛙が最初に鳴き出すことから、それがやがては大合唱になります。

信行ご奉公の上でも、誰かが最初の一声を発し、音頭を取り、異体同心になって励んでいくことで、ご弘通ご奉公も、お寺の隆昌発展も成し遂げられるものでしょう。

ご信心の改良増進こそご利益感得のポイントです。



御題目口唱の数を増やし、お寺・御講の参詣を増やし、参ったら必ず御法門を聴聞させて頂くことで、ご弘通の法器たる佛立菩薩に生まれ変わりましょう。

その改良の暁に、全ご信者がご利益を感得できる信心前になることを目指し、お折伏の一声をかけ続けることが肝心 と御教歌はお諭しです。


御妙判

「日本国の中に但一人南無妙法蓮華経と唱へたり」

(妙密上人女房御消息・昭定1168頁)


今や日本全国に、そして全世界に弘まっている、末法の成仏の大法・真実の御題目は、初めはお祖師様ただお一人から始まったと、お祖師様ご自身が仰せの御妙判です。

建長五年(一二五三)四月二十八日、清澄山旭が森での立教開宗がその始まりでした。




平成27年4月2日

テーマ    『学校年度』


すっかり春らしくなりました。

4月といえば、入学式、入社式の時期です。



年度とは、暦年とは別個に、特定の目的のために規定された1年間の区切り方をいいます。

4月から始まる年度には、学校年度と会計年度がの二つがあげられます。

学校年度では、3月が年度替りとなり、学校では卒業式や終業式が行われます。

そして、4月には進級した学年で始業式が行われ、入学式も行われるのです。

社会に旅立った人には、入社式が待っているでしょう。

1月の新春の喜びもさることながら、4月の新学期を迎える喜び、新しい学校へ入学する喜び、社会人1年生となった喜びは、校庭や野山を彩る桜の花と共に晴れがましく目出度いものです 。



新学期になって誰もが希望に燃え、勉学にスポーツに頑張ろうと思うものです。

新入社員の方々も、それぞれに持つ抱負を実行実現すべく、仕事に臨まれるでしょう。

その気持ちを忘れず、持続できれば、怠ることもせず、勉学にもスポーツにも仕事にも成果が上がるに違いありません。



父観阿弥と共に、観世流として現代に受け継がれている能の大家、世阿弥。

その著書『風姿花伝』(『風姿華傳』、『花伝書』とも)では、観客に感動を与える力を「花」として表現しています。

そして、『風姿花伝』以後、約20年間の著述を集成した『花鏡』の結びには、芸の奥義として「初心忘るべからず」と記されています。

今日では、物事を始めた頃の新鮮な気持ち や意欲を忘れてはいけない、という意味で使われていますが、これは世阿弥の言った意味とは異なります。

これは、あらゆる功能につながるとして紹介されている一句で、世阿弥の芸能論の精髄と評されています。

その初心には、

「是非(ぜひ)の初心を忘るべからず」

「時々(ときどき)の初心を忘るべからず」

「老後(ろうご)の初心を忘るべからず」

の三つがあります。

世阿弥の「初心」は、若い頃の未熟な芸や、年齢ごとの芸の初めての境地を指しており、芸の向上を測る物差しとしてこの初心を忘れてはいけないというのです。



御教歌(佛立開導日扇聖人教え歌)

()しをりの  おもひ忘るな  なれゆけば
もとのすがたに  みだれもぞする

№1000(830)(三界遊戯抄  一・扇全6巻346頁)



大 意

御題に「修学所のをしへ子に」とお示しのことから、佛立の教学を学ぶ修学所の生徒達に詠まれた御教歌であることが判ります。

御教歌は、御法門の筋を勉強するお弟子や学徒方に対し、「来し折りの思い」をお忘れなさるな。慣れて慢心をしたり、解にズルったりして行けば、やがて収拾が付かなくなり信心をなくした「元の姿に」戻ってしまうであろうからと、誡められています。

ご信心での素直正直さを忘れず、初心を持(たも)つことの大事をお諭しです。



開導聖人の御指南

「生れながらにして貴きものなし。習ひ修して性(聖)となる。習の一字。これは正直な人が学問の仕損じにて悪くなりたるを、初心を手本として信心せよと 云事也。O初心の人の真似の事肝心也」

(名字得分抄  中・扇全14巻128頁)





平成27年3月9日

テーマ    『啓  蟄』


【啓蟄】けい‐ちつ  と読みます。

蟄虫、すなわち冬ごもりの虫がはい出る意です。

二十四節気の一つで、2月の節です。

太陽暦の3月5日頃に当たります。

今年平成27年は、3月6日です。

俳句の春の季語にもなっています。



啓の字は訓読でひらくと読み、ひらく、開放するの意があります。

蟄の字は、虫が冬ごもりのため土中にかくれる、とじこもるの意です。

蟄居  ちっ-きょ、といえば、

①虫が地中にこもっていること。

②家にこもって外出しないこと。

③江戸時代、公家・武士に科した刑の一種。出仕・外出を禁じ、自宅の一室に謹慎させるもの。

等と辞書に掲載されています。

時代劇や小説には、③の自宅謹慎の意味で度々使われています。



四季の移り変わりのある日本では、立春→雨水→啓蟄→春分、と移っていきます。

啓蟄は、越冬した虫達の(うごめ)きを、冬の氷が溶けて春の訪れを告げる自然の摂理として捕らえているものです。



因みに、「松の(こも)焼き」とは、前年秋に松の幹に巻き付けた菰を取り外し、菰の中で越冬している害虫ごと焼く、昔ながらの害虫駆除方法であり、この時期の 風物詩です。



御教歌(佛立開導日扇聖人教え歌)

きくたびに  迷ひの氷  うちとけて
うれしき春の  ひかりをぞ見る

№827(691)(講談要義  上下・扇全3巻263頁)



大 意

御法門を聴聞する(たび)に、凡夫の心の迷いの氷はうちとけていくことができます。それによって、冬が春へと移り変わる如くに、妙法御題目の御経力で、ご利生を我が身に感得することが出来ることを仰せです。上の句の原因を受けて、下の句にはその結果を詠まれ、春の光・法の光を見せて頂けることは何と有難いことかと、お示しです。



『講談要義  上下』とは、明治三年十一月から、翌明治四年三月までに認められた御指南書です。



開導聖人はこの御教歌の読まれた一段の冒頭に、「信心決定」と記されています。

凡夫の未来は、一寸先は闇です。

因果の道理に従えば、善は少なく悪は多い凡夫は、今日只今ま での、日夜の善悪の業がそのまま未来にうつり、苦楽を受けることになります。

凡夫の自力では覚る智恵もなく、迷いの生死の暗がりから逃れられない凡夫です。

真実の御法様にお出値いできたこの度の一生こそは、正直に仏説を信じ、法華経の御説の如く御題目を唱えて、日夜に迷いの罪を滅し、仏祖諸天の御守りを得て、御題目の御共をして寂光参拝させて頂くことが肝心です。

考えても判らない死後の世界のことは御題目にお任せして、御題目の御共をして寂光に行くのだと決定させて頂くことが、名字即の凡夫の信行観心なのです。

謗法は(うさぎ)の毛の先程もなきよう、心で常に用心をして、御法門を聴聞させて頂けば、所願成就のお計らいを感得する大きな便りとなるのです。



そうと信心が定まれば、聴聞する度に迷いの氷はうちとけて、うれしき春の光を見ることができるのです。



御教歌の通りを心に留めて、聴聞を重ねることを諭されます。



開導聖人の御指南(お書添え)

(ひと)(たび)にても御法門は御聴聞なさるが、(しよ)(がん)(じよう)(じゆ)(だい)なる便(たよ)りとなるものにて(そうろう)(なり)

(講談要義  上下・扇全3巻263頁)



虫もはい出る季節です。

お参りしやすい季節です。

お寺に、御講に、参詣し、御法門聴聞を重ねましょう。

一人で参らず、声をかけ合って、つれまいりの功徳も積ませて頂きましょう。





平成27年2月12日

テーマ    『水は寒積れば氷となる』


高祖日蓮大士御妙判

()れ水は(かん)(つも)れば(こおり)となる。雪は(とし)(かさな)つて(すい)(しよう)となる。悪積れば地獄となる、善積れば佛となる」

(南条殿八木書・昭定1504頁)



御妙判大意

水は、寒さが積み重なれば、氷となる。雪は、歳月を累ねれば、水精(水晶)となる。同様に、悪が積もれば地獄に堕ちる。善根を積めば必ず仏と成る。



弘安元年(1278)5月24日付けで、南条時光夫人宛てに出された、お礼のお手紙の一節です。

出典の「南条殿八木書」の八木とは、米という字が「八」と「木」から成ることから使われたものです。

お祖師様日蓮大士が、米2俵をご供養された南条夫人への返礼のお手紙の冒頭に、米の字を分解して「八木二俵」と記されているのです。

機知に富んだ表現で、米の字を八木と記されたことから、別称(別名)として「八木書」「八木御書」の異名が付けられています。



水は寒 さが続けば氷になります。

雪も万年雪となってさらに上に降り積もれば、ついには氷河となります。

水精とは、水晶のことで、鉱物の石英のことです。

現代科学では、雪が石英に変わることはない、と言い切ってしまいます。

しかし、鎌倉時代の自然現象を、当時の常識に照らして人に理解せしめようと譬喩として扱うとき、雪が水精となる譬えは、硬く引き締まった氷がまるで水晶のように思え、誰もが納得できたのでしょう。

お祖師様の機知に富まれた表現が、ここにも活きていると、拝察させて頂きます。



善悪の積み重ねも同様で、悪が積もれば地獄となり、善が積もれば成仏の大果報を得ることができると仰せです。



続く御妙判には

「女人は嫉妬かさなれば毒蛇となる。法華 経供養の功徳かさなら ば、あに竜女があとをつがざらん」(同 上・昭定1504頁)

とお示しです。

南条夫人へのご信心が増進されるよう女人成仏の御法門を引かれ、夫人のご供養を(ねぎら)われています。

女人が嫉妬を重ねればやがて毒蛇に変身をするけれども、法華経供養の功徳を累ねれば、竜女が成仏した後を継いで夫人も必ず成仏されるであろうと、篤志を愛でられるのです。



御教歌(佛立開導日扇聖人教え歌)

つとむれば  罪障滅し  つゝしめば
身をおこすべき  利益蒙る

№1897(1576)(開化要談  五・扇全13巻138頁)



大 意

善を勤れば罪障を消滅でき、悪を慎めば身を起こすべきご利益が感得できるとお示しです。懈怠を破り、好きな事を止めることが、勤めること。

ご利益とは所願成就のことであると、脇書きにお書き入れです。



御題「勤為無価之宝、慎是護身之符」

・読み下し   ((つとむる)()()()(たから)()し、(つつしむ)()()(しん)()()



御題は、『醒世格言』に示された文をそのまま引用されています。

醒世格言とは、明治15年7月に刊行された飯沢耿介の書で、世に広まる仏教的格言を編集した書物です。

その第1丁裏に「勤為無価之宝、慎是護身之符」と記されて います。

意味は、勤めること は値段の付けようがない、この上無い宝であり、慎むことは身を護るお札のようなものであるということです。



開導聖人はこの文章を先に読まれ、それを当宗のご信心に当てはめて、御教歌を詠まれたのではないかと拝察させて頂きます。



開導聖人の御指南

「一善を行ずれば(ふく)(いた)らずと(いえども)(おのずから)(わざわい)(とおの)く。一悪を行ずれば、いまだ(わざわい)(いた)らずと(いえども)(さい)(がい)(ちかづ)く」

(開化要談  教・扇全14巻28頁)




平成27年1月17日

テーマ    『寒修行』


寒とは、中国伝来の二十四節気に示される季節の分類です。

小寒と大寒が定められ、立春前のおよそ30日間を指して寒と言います。

寒の入りは小寒の1月6日で、寒の明けは2月4日に当たります。



佛立宗は、新年を迎えた寒の入りから寒明けまでの(ひと)(つき)間に、寒修行が行われます。

お祖師様の佐渡ご流罪をお(しの)びしようと、本山宥清寺のご信者が発起人となり、始められたのが寒修行です。

今では、佛立の年中行事の中の大切な一つとして、全国津々浦々の佛立宗の寺院教会で、一斉に寒修行が行われています。

特に、宗門を挙げて統一御法門を聴聞させて頂ける形となるまでに発展したことは、他宗の追随を許さぬ佛立独自の 修行として、誇るべき信行形態でありましょう。



世間では、「一年の計は元旦にあり」といいます。

1年間の計画はその年の初めに決めておくのがよい、という意味です。

元旦に計をたて、(はつ)(もうで)に寺社を訪れ、その計を黙祷し、多幸を祈願するわけです。

1年365日の中、たった元旦1日だけ参詣して祈願をし、あとは神仏任せのほったらかしです。

それで1年間幸せになれますようにというのは、あまりにも自己中心的で横着な願い方ではないでしょうか。



すでに始まっている寒修行。

お互いは「佛立の一年の計は寒修行にあり」と心得て、寒修行の皆参を目指しましょう。

同時に本年度の教化誓願成就と、お寺・御講参詣の増加を、御宝前にし っかりとご祈願させて頂きましょう。

そのように寒修行の一月間、連日お寺に参詣をさせて頂き、1年間のご利益感得の種蒔きをさせて頂きましょう。

自分の願いを叶えて頂くためには、自ら進んで身命財を御宝前に施させて頂かなければ願いは叶いません。

そして、佛立のご利益感得の秘訣は、自分は御宝前のために何をさせて頂けるだろうかと考え、それを実行させて頂くところにあるのです。


御教歌(佛立開導日扇聖人教え歌)

かどの()に  ()(のり)(こえ)の  きこゆなり
あさまいりぞや  早くあけなん

№751(626)(三界遊戯抄  一・扇全6巻343頁)



大 意

「かどの()」とは「(もん)(そと)」のことです。早朝からお寺に参詣するご信者が、未だ開いていない門の外で、御題目を口唱して開門を待っている。その声に気付かれた開導聖人が、もう朝参りにご信者が来られたと随喜され、早く本堂に入って頂こうと急がれるご様子が伺えます。

出典の『三界遊戯抄』は、明治13年10月から(したた)められたご指南書です。

この年3月には宥清寺の向かいに親会場が落成し、そして翌明治14年にお迎えする高祖600回御遠忌の奉修を目指し、報恩ご奉公に邁進されている()(なか)という時期です。

朝参詣に気張るご信者方のご弘通の意気込みに随喜されたお心を詠まれた御教歌である と推察させて頂きます。



開導聖人の御指南

(あめ)(ふり)(につ)(さん)(みじか)()(あさ)(まいり)はしにくきもの也。(その)しにくきことをつとめ()(たの)しみとする人は、必ず(その)(こう)をあらはすもの也。(しよ)(がん)(じよう)(じゆ)(かい)(うん)(しゆつ)()うたがひなし」

(長梥堂要義抄・扇全6巻198頁)




平成27年1月1日

テーマ    『初まどひ』


開導聖人が詠まれた「年始」の御教歌には、11首あり(類別御教歌集「年末年始」参照)、その内の1首を頂戴します。


御題「一月五日初講に」



御教歌(佛立開導日扇聖人教え歌)

こぞよりも  ことしはひろめ  まさらんと
おもへるけふの  初まどひかな

№1005(832)(鶏鳴暁要弁 上・扇全10巻116頁)



語 彙

「こぞ」とは、【去年】と書いて、きょねん・昨年のことです。

「ことし」とは、出典の『鶏鳴暁要弁』上巻は、明治19年5月にお筆を止めておられますので、明治19年と特定できます。

「ひろめまさらんとおもへる」とは、弘め勝らんと思うことができる。自然とそう思うようになる。の意です。

けふのとは、「一月五日初講に」と御題でお示しのように、明治19年の新春5日のことです。

初まどひのまどひとは、【円居】と書いて、円座を組むことで、御題にもお示しのように初御講のことです。惑いではありません。

「かな」とは、詠嘆の意を表す助詞で、…だなあ。…ものだなあ。の意です。


大 意

これ等のことから、明治19年1月5日に初講が奉修された時の御教歌で、新年を迎えて昨年よりも今年は益々ご信心を弘め勝りましょうと云う意気込みを持っても臨む初御講であることよ。と、お参詣の方々のご弘通の意気込みを詠まれた御教歌であることが判ります。


明治19年は、開導聖人聖寿70歳。ご晩年のご遷化4年前の時期です。2年前には17組脱退事件が起こるも、五五の御指南を続行され、鑑札制度を設けて、随自意のお折伏による講内の異体同心を図られていた時期です。

この年のご指南書から黄色の表紙を用いられています。改良の後に読む法門は、黄色と浅黄色の二部の法門であるとされた黄色表紙の御法門が説かれ始めた年なのです。


その後、弘め勝らん意気込みのご奉 公により、翌明治20年には、17組の代表が開導聖人にお懺悔状を提出して復帰を致します。

そのような結果を導く初円居であったと想像もさせて頂ける御教歌です。


お互いも、新春を迎え、昨年よりも弥増して、弘め勝らん意気込みを持たせて頂きましょう。


開導聖人の御指南

(とし)(あらたま)りぬとて信心(ばかり)(あい)(かわ)らずとは(もうし)(がた)し。(いま)(いっ)(そう)信行増進せねばならぬ事云々」

(講場必携 乾・扇全14巻216頁)